兜松

兜松は藤沢市宮前、神戸製鋼の工場敷地内にあります。
宮前御霊神社から神社横の坂を上ると鎌倉古道に出ます。
住宅の横を抜けると、フェンス越しに兜松を見ることができます。
兜松の横に石碑がありますが、残念ながらフェンス越しからでは字が読み取れません。

 

 

  兜松と八ツ嶋
この道は鎌倉の化粧坂から柏尾川を渡り、村岡
城内に通ずる鎌倉街道の名残である。八幡太郎
義家が鎮守府将軍のとき奥州に後三年の役
があり鎌倉権五郎景政も十六歳で従軍した。
苦戦が続き新羅三郎義光も援軍にかけつけた。
特に仙北郡金沢棚の合戦には鳥海弥三郎に
右の眼を射られその矢を射返して敵を討ちとっ
たことは有名である。凱旋のあとかねて祈願した
御霊神社に戦勝のお礼詣りした記念に岩上の
松の根もとに兜を埋めたのが兜松の由来で
ある。またこの付近は新田義貞の鎌倉攻めの
中心地で鎌倉方は相模守赤橋守時で六万
余騎の大軍で元弘三年(一三三三)五月一八日は
一日一夜のうちに六五度の合戦が行われた激戦地
で世に州崎の戦いといわれている。その時の戦死者を
葬ったのが八ツ嶋である。

 

  折笠矢竹稲荷大明神と兜松
 永保三年(一〇八三年)、奥州で後三年の役がおこり、その戦
に陸奥守兼鎮守府将軍であった八幡太郎義家がここ御霊神社東側
の旗立山にて兵を集めました。
 当時、一六歳であった鎌倉権五郎景正も初陣として参戦しまし
たが、奥州仙北郡金沢の柵の合戦において、敵である鳥海弥三郎
の放った矢により右目を射たれました。しかし景正はその矢を引
き抜いて射ち返し、みごとに打ち取ったという武勇伝が伝えられて
ています。
 戦いに勝利した景正は、ここ御霊神社に戦勝のお礼参りに訪れた
とき、持ち帰ったその矢を境内に指しておいたところ、青葉が生
えてきました。そこを折笠矢竹稲荷大明神として奉られています。
今でも神社の裏山には矢竹が生い茂っています。
 また、その時の兜も松の木の根元に勝利の記念として埋めまし
た。その木は後に兜松と呼ばれています。
  平成二十二年六月吉日  寄贈 村岡郷土史研究会
                        廣田 隆義