平良文の塚

二伝寺の墓苑に入り、奥に進むと竹林があります。
それをさらに進んでいくと、「村岡五郎平良文公墓前碑」があります。
左側に少し下ると、「塚入口」の石碑があり、細い階段を上ったところに、
平良文、その子忠光、孫忠通の塚があります。

 

良文公は桓武天皇の玄孫(五代目の子孫)にして仁和二年(八百八十六年)三月十八日
生まれ、延長元年(九百二十三年)正月母と共に東国に下り相模の国村岡郷渡内村に
館を構え(今の村岡城址公園周辺) 比叡山麓の日吉大社の祭神大山昨命を城砦の守護
神に勧請し (現在の日枝神社) 天慶二年(九百三十九年) 鎮守府将軍従四位下陸奥守に
任ぜられ翌年の天慶三年、平将門征討と国家安穏を祈願し京の山城國の御霊宮の祭神
早良親王(追謚号祟道天皇) を同郷宮前村に勧請した (現在の御霊神社) と旧くより
伝えられ関東一円に強力なる勢力を張った坂東八平氏 (三浦・千葉・上総・大庭・畠
山・長尾・梶原・土肥) の始祖とし多くの荘園有し武威を関東に振るたり。 その子孫は
前九年の役、後三年の役の嚇々たる勲功、頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する等、大い
に繁栄せり。公の晩年は仔細は不詳なるも天慶六年(九百五十二年)十二月十八日
六十七歳を以て病没し此の地に葬る。右に二代忠光公、左に三代忠通公、之を村岡城
御三代城主の墳墓なりと旧くより里人の口碑に伝えられている。
   平成一七年乙酉年 十一月吉日

           村岡郷土史研究会 建立

 

碑の左側には桓武平氏系図があり、桓武天皇を祖とし、高望王や、平将門、平清盛の
名前も見えます。

 

塚入口の石碑
雉なくや
  草のむさしの
       八平氏